生きる意味とは?だいじなのは答えじゃなくて(旧ブログより)

(旧ブログからの移転記事です)

ある日の新聞朝刊、人生案内の欄に気になるものがあったので、切り取って読み返し、考えたことをまとめました。

自分の生きる意味がわからないと心細く迷うときに、静かに響いてくる内容でした。

ある女性の人生についての悩みと、精神科医の回答

相談者は80歳の女性。以下に内容を要約します。

「子どもはそれぞれ独立し、夫はすでに亡くなっている。

自分は何の病気もなく、病院には年に一度、予防接種を受けに行くのみ。

毎日午前中に散歩や家事をすませて、午後は趣味を楽しむ。テレビは捨てたので、夜は本を読んで過ごす。

経済的にはギリギリだけども、借金はない。」

…ここまでは、平穏で幸せな、理想の老後のように思えます。読んだとき、素直に「うらやましい」と思いました。

しかし、相談者はあとにこんな言葉を続けます。

『私はもうこの世に必要とされる存在ではないのでしょうね』

そして、死を待つむなしい身だけども、どのような心構えで残る日々を生きていけばいいのかと、相談は結ばれます。

回答者は精神科医の先生。回答要約。太字は私によるものです。

「あなたの悩む気持ちや疑問は高齢者に限らず、『自分は必要とされていない』と感じた瞬間、誰の心にも起こる心理

そこには『役に立たなければ生きる価値がない』という考えが絡んでいるのでは?

実際には何が役に立ち、何が役に立たないなんていうことは人間のちっぽけな判断能力ではわからない。

だとしたら人生の意味とか意義とか考えず、ともかく生きることを楽しみましょう。

そもそもすべての人が死を待つ身。

日々感謝しながら生きているあなたの姿が、周囲にプラスの影響を与えないわけがない。

あなたの生き方をこのまま良いお手本として示し続けてほしい」

要約終了。

自分の人生はいったい何かの役に立っているのか、という悩み。

それは自分も絶えず持つものです。

ある日は前向きな結論が、ある日はそうでない結論が出ます。日々変わります。

この広大な世界、宇宙の中で、砂粒にも満たないような小さな存在である自分の頭で考えて出した、正しいかどうかもわからない答えは、それこそ意味があるのでしょうか。

個体は単体で完結するものではないかもしれない

この人生相談を読んで思いだしたものがあります。

以下に、漫画「動物のお医者さん(佐々木倫子著)」文庫版、第6巻の解説を書いている藤原新也さん(作家)の文章を引用します。

藤原さんは東京と、南房総の山中の家を行ったりきたりする生活をしており、その山の家の天井裏で毎年子を産む猫がいるそうです。

たくさんの子猫が生まれ育ち、親離れをして自立する様を見守ってきた中で、病気持ちの子猫と関わったエピソードが綴られています。

その猫はあらゆる病気を抱え込んだような風体をしており、いつ死んでもおかしくないような状態でした。

偶然から病猫を家に入れ、世話をするようになったのですが、家を訪れる人はひどい状態の猫を見て驚き、感心するといいます。

その感心の中にはときに私のボランティア精神に対する共感の意味も含まれているわけだが、私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた。

(中略)

私が病気の猫を飼いつづけたのは他人が思うような自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって人間であるならだれの中にも眠っている慈悲の心が引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。

(太字は私によるものです)

新聞の人生相談と病猫のエピソード、私が二つに感じた共通点は「生き物は一個で完結しなくてもいいのか」という感想でした。

人生は自分で学んだことを自分で活かしきって死ぬこと=何かをやり遂げて生を終えること、それが当たり前で最高だとこれまで思っていました。

だけど、必ずしもそれだけとは言い切れないのかもしれません。

自分の人生、自身で「なかなか報われない」と感じることは誰しも多々あるでしょう。

だけども、その「自分では『報われない』と思っている人生」も、もしかしたらほかの人の目には違って映っているかもしれない。

自分で自分を、世界の役に立たない存在だと思っていても、他者に影響を与えるという形で、十分役に立っていることもありえるのです。

「役に立つ」という言葉の厳密な定義はともかく、ここでは、教訓として、発奮の材料として、心の支えとして……

どういう形でかはわからないけど、他者の道しるべの一つにはなれるかもしれない。もしそうならば、自分の生きた意味ははっきりと他人の中にあるといえるでしょう。

だから、自分で何かを成し遂げられるのはもちろんすごいことだけど、目標・理想にたどりつくことだけじゃなく、もっと根本的な…理想を追う姿勢こそが大切なのでは。

自分という砂粒の生き様が、ほかの何かにひびいて連鎖する可能性、そしてまた限りなく広まっていく可能性がある。

そう考えたとき、新しい視点を得たと感じました。

結局は、よくある自己啓発的フレーズだけれども

結果より過程……というより、姿勢。もちろん結果も重要ですが、全てじゃない。

結果より過程に意味がある、とはよく目にするフレーズですが、自分なりのとらえ方をはっきり意識できたことは大きな収穫です。

自己啓発本やなんやらでよく見かける文章で、もはや陳腐といってもいいかもしれません。

だけどたださらりと読んでわかった気になるだけではなく、こうして自分の中で具体例が結びつくという過程があって、それでやっと血肉になるのかなと思いました。

ここで前半の問い、「自分で考えて出した答えに意味はあるのか?」に結論を出します。

・出た答えがなんであれ、答えそのものよりも、自分の頭で考え続け、動き続ける「生きる姿勢」こそに意味がある

・その姿勢を他人が見たときにも、また新たに意味が生まれる……人の数だけ

 

人は何かを見て、誰かを見て、常に影響され続けます。

世界と関わり続け、生き続ける限り、自分の生き方がどこかで誰かに新しい意味を生み出しているかもしれない……と考えると、この何気ない日々や考えも、記録することも、捨てたものではないなと。

 

ならばなおさら、日々感じたことをきちんと自分で考える意識をいつも頭の片隅にとどめておき、折に触れこうして言葉にまとめていきたいです。めまぐるしく過ごしていると、なかなかできないこともありますが。



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